「三上さん」

無意識に奥歯を噛み締めてしまうのを、許してほしい。









the Time Machine.゜.+.゜。








2年前より伸びて、明るくなった髪で彼女は近づいてきた。
少し大人びながらも笑顔は当時と変わらずに。

「おお」
「篠原先生が呼んでましたよ」
「あー、サンキュ」
「はい。それじゃ」


もう一度微笑んでから去っていく後姿をぼんやり見送ると勝手に息が漏れる。
(さすがにもう何も思わねえよなあ)
首を軽く撫でてから担当教授の待つ逆方向へ歩き出した。


「武蔵病院、ですか」
「うん、どうだろう。私の友人がいてね。リハビリテーションと整形外科、精神科。君の希望に添えると思うんだが」
「…はい」
「何か思うところがある、かな」
「いえ、そんな」
「まあ今結論を聞こうとは思ってないよ」
「ありがとうございます」
「今月中には答えを聞かせてほしい」
「はい」


失礼します。パタンと重い扉を慎重に閉める。はー、と長く溜息。
今日はさっきから溜息ばっかりついてるな、と三上は苦笑した。
医学部もついに5年から現場での実習が始まる。自分の実習先を決めなくてはならない時期なのだ。
大体は大学病院での実習を積むが、三上の専攻するスポーツ医学に関わる専門分野はこの大学病院では深い部分まで 扱っていないため、教授の推薦状とともに外部の病院での実習を志願していたのだった。

きっとあいつに会ってなかったら二つ返事で行くと言っただろう、と三上は考えていた。

自分に考えさせるためにに俺を呼ばせに?いやいやまさか。教授は知らないし。うんうん、ないな。
教授室を出たところの廊下で1人唸っている自分に気付いて、三上はばかばかしくなりまた歩き出した。

コーヒーでも飲むか。

白衣の後ろがゆらゆらと揺れる。
廊下の塩化ビニールに差し込む光が反射して窓辺をたゆたっていた。

















ラウンジで熱いブラックを飲み、三上は窓の外を見やった。
柔らかい光が中庭に降り注いで景色を白くさせている。視線を館内に戻すと真っ暗でイスやテーブルが紫の淵がかかっているように 見えて、目を瞑って暗順応を待った。
その間、瞼の裏には先ほどの彼女が映る。鮮やかな色合いで。

は大学時代の恋人だった。元彼女、元カノ、ex-girlfriend。
今も大学生といえばそうだが、世間一般で言う大学生。つまり20、1歳くらいだった頃の。
は2つ年下の学生だった。サークルの後輩で、武蔵野森の女子部出身だったこともあってよく面倒を見ていた。 普段はとても大人っぽく冷静に振舞っているのに笑うと途端に少女のように幼くなるところが気に入っていた。
が2年生になる頃、「水曜4限が同じ」男に迫られてるのを知って、俺から告白。 かなり慌てた感じになって最高に最低だった。でも「待ちくたびれるとこだった」と笑った顔は最高に可愛くて、 そのお陰で思い出としては最終的に最高ってことになっている。


目を開けてコーヒーを見つめた。立ち上る湯気と香り、いつもと同じはずなのに こう妙に感傷的というか思い出ばかり掘り起こしてしまうのは、やはりに出くわし、会話した所為だろう。
同じキャンパスにいても学年が違うし授業も違う。見かけることはあっても会話をすることはほとんどなかった。

彼女はブラックが飲めなかった。コーヒーを飲むときは必ずミルク1つと砂糖2本。 紅茶の方が好きなくせにやたらとスターバックスに入りたがったり、コーヒー党の俺に合わせて一緒に出かけるとコーヒーばかり飲んだ。
誕生日にはケーキを焼いたし、甘いもの苦手だって何度言っても「これは亮の誕生日を祝いたいっていう私の自己満足だからいいの」と言って聞かなかった。 風邪を引けば家に押しかけて来るのに、が風邪を引いても絶対俺を家に上げなかった。 「風邪引いてるときなんて、ベタついてるしすっぴんだし最低」らしい。男としてはそういうのも良いんだけど(って言ったら嬉しそうに「変態」だって。どっちがだ)。

そんな日々にも終わりは来てしまった訳で。突然夢から覚めたようにが別人に見えるようになった。 一緒にいても話は頭に入ってこなくなったし、マネキンを連れて歩いているような、気持ちが身体から離れてふらっと別のところへ行ってしまったような。 どうしてそうなったのかはわからないし、には恐らく原因はなかった。
だけど、気持ちが落ち着いてしまうと、会いたいとか触れたいとかキスしたいとかそれ以上とかそういう衝動とか本能とか、制御できない部分に 顕れてしまって、要するにそういうことを思わなくなったのに場繋ぎ的に行為に及ぶのとかは出来なくて、別れた。
は大人しく離れていったけど、きっとたくさん泣いたんだろうと思う。俺が、泣かせたんだろうと思う。
そして、笑えるようになったんだと思う。

まさか同じ研究室に来るとは思っていなかったけど、別れた彼氏がいて気まずいから 進路まで変えるなんてそんなくだらないことするやつじゃなかったから、仕方ない。

呼び方は変わったけど、笑顔は褪せないまま。

(あいつは俺のことどう思ってんのかな)
まだ好きでいてほしいと心のどこかで思っていて、ばからしい。
自分の中では多少美化したところはあるかもしれないが、今でも最高の思い出と言えるくらいにはの存在は ある意味で特別なのだ。
こっちの勝手で別れたくせに、全くもってしょうもない。



頬杖をついていた手で首を撫でつけ、息を吐く。
思い出との対話を終えた三上がもう1度カップを見ると、もうコーヒーは残っていなかった。










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080531