大学生と高校生は海にいた。 私は編まれたような華奢なオープントウの靴を履いていたのでそのまま砂浜を歩こうとしたのだけれど、 ビーチサンダルを履いていた彼が、靴を履いたまま砂浜を歩くなんて納豆を混ぜずに食べるのと一緒だよ。 なんておかしな例えをすっかり裸足になって言うので 「そうね、納豆は混ぜなきゃ」 素直に私もパンプスを脱いで裸足で砂の上に立ったのだった。 砂浜というものはじっと立っていることなんてできないくらい熱いものだと思い込んでいたのに、夕方の砂は人肌のように温かった。 海自体5年以上来ていない私が、裸足で砂浜に立つなんて10年ぶり以上だ。 細かくて柔らかく乾いた粒が、みるみる指の間を埋めていく。体重をかけた場所がその分だけ沈み、 まるで砂を履いているような気分がした。 「おっ、すごい」 「おっ、って」 隣にやってきた彼は、いつもの、そして私の特別気に入っているやり方でくしゃ、と笑った。 その目の笑い皺を見ると私も笑ってしまう。彼は私のパンプスをすっと取って、右手に持った。 右手にパンプス、左手にビーチサンダル。私はもっと笑顔になる。口角がこれ以上は上がれません、と弱音を吐くまで。 大学生ってもっと大人なもんだと思ってた。と高校生は口癖のように言う。 その度に私は子供のように、ごめんなさいねと謝り、拗ねて見せるのだ。 また彼は、ほらそんなとこ!と言って白い歯を見せてくれる。 私はその綺麗な秩序の保たれた並びを私の舌でなぞっているのを思い浮かべる。こんな風にして私は彼といる時、常に幸福でいられる。 「さん、」 こっち、と彼は私の手を握って波打ち際へと歩き出した。 器用に右手でビーチサンダルとパンプスを掴みながら。左手に私の右手を掴みながら。 私は彼に連れられるままに歩いた。 水際の潮風はとびきり素敵な湿り具合で、指の間を洗う波はたまらなく軟らかかった。 「私、今すごく楽しい」 「俺も」 手を繋いだまま、波打際に並んで立っていた。彼の歯並びのように、美しい秩序で。 私は目をつむったまま話したけれど、いつもそうするようについ彼の方を向いてしまう。 きっと目をつむりながら笑う私を見て、彼も笑っただろう。 辺りは波の音しかしない。 そのうち私はこれが外から聞こえているのか、私の身体の中で鳴っているのかわからなくなってしまいそうだった。 足は動かしていないけれど、ずっと遠くまで来てしまったような気がする。 彼の手が私の右手にきちんとあるから、どんなに遠くても大丈夫。 「誠二」 そういえば彼の声や身動きの音がしないので、右手に力を込めながら呼んだ。 もし目を開けたとき、私が握っていたのは誠二の左手だけで他はすっかり消え去っていたらどうしようかと急に恐ろしくなったのだ。 「どうした?」 ぎゅうと誠二が私の手を握り返してくれたので私はようやく目を開けた。 誠二の左手の先には腕があり肘があり、肩があり、首の上には頭が乗っていて、 右半分も同じものがきちんと爪先まで全部揃ってくっついていた。 「今呼び捨てした」 「ごめんごめん、つい出来心で」 怒ったの?さん、とわざと付け加えるようにして楽しそうに彼は言った。もちろん私は笑う。 その顔を見せられて怒っていられる生き物なんていないのだから。 たまらなく目の皺と歯並びが愛しくて美しい。 私は彼が恋人になる前、まだOGの先輩と現役の後輩であった頃、にさん付けを約束させた。 先輩って感じがしない、とか、仲良くなったんだからいいじゃん、だとか彼は渋ったけれど、 私は出会った頃に初めてさんと呼ばれたあの時、それまで最大の幸福を感じた。 鼓膜の震えが脳髄まで伝わって胸が真夏の砂浜よりも熱くなった。 それがどうしても味わいたくて、半分わがままで「さん付け」を通してしまっている。 何故呼び捨てではダメなのか、私にもわからないけれど、恋人になった今でも「さん付け」は一番の大好物だ。 「明日からだっけ?」 「何が?」 「名古屋」 「そうだよ、やだなー」 「なんで、食べ物美味しいし、い、わっ」 彼の肩口に押し付けられて、私の言葉は途切れた。 名古屋との対戦を楽しみにしていることくらい百も承知だ。でもそれをいやだという彼も、本物なのだとわかって 私はまた笑顔になってしまう。彼からこの調子に乗った笑みが見えないことが救いだ。 ぐっと誠二の腕に力が入って、私のいる空間が狭くなるのがわかる。それと連鎖して私の胸の中も 途端に狭く、窮屈になってしまうのだ。 「急だねえ」 「ハハ、うん。俺まだガキだから」 「大丈夫、いい大人の男になるよ」 「さんがしてくれんじゃないの?」 「あは、いいよ」 本当は、彼の唇はもう充分にいい男になっていると思う。 誠二とキスをすると、美味しい果物を食べたときのように口が瑞々しくなる気がするのだ。 実際に美味しいような気さえもする。 私はいつも感覚にすべて持っていかれて何も考えられなくなってしまうからよくは認識できていない のだけれど。 誠二の舌が滑り込んできて歯列をなぞる。私は彼の歯並びを見るといつもその逆を思う、でも 本当は1度もしたことがない。いつも先を越されてしまって、その味は夢の中だけのものだ。 私たちの間を潮風が埋めてゆく。微笑んで、右手と左手を元通りに戻してから揃って崩れた。 砂が学生たちを後ろからやさしく抱きとめてくれる。 abendliche Windstille 080526 |