暑い暑いある夏のこと。僕は山奥のとある村にいました。 そこにはおじいちゃんとおばあちゃんが住んでいて、家から川を一つ越えた所にある畑で 野菜や豆を作って暮らしていました。僕の家の近くにも山や畑はあったけれど、そこから大きな山をいくつも越えて、 途中で寄り道をしてご飯を食べたりトイレに行ったりしなければ辿り着けないこの村は、 山も川も畑も僕が知っているものよりも何倍も何十倍も大きいのでした。 プールなどと言うものはありませんでしたので、子供も大人も川で泳ぎました。もちろん僕も。 僕はあまり泳ぎが得意ではありませんでしたが、プールとも海とも違う、 冷たくて透明で甘い水がとても好きになり、自然と泳ぐのも潜るのも好きになりました。 僕はおじいちゃんの畑仕事の手伝いのあと、毎日川に向かいました。水面が夕日に染みて朱色になるまで泳いで、 帰りにおばあちゃんのお友達(といってもおばあちゃんよりはずっと若い、おばさんとおばあちゃんの間くらいの女の人) がやっている小さな商店に寄ります。 村にはコンビニがないのでこの商店がその役割を担っていました。 といっても7時には閉まってしまうので、僕はそれに間に合うように川から上がらなければなりませんでした。 そこで僕はアイスやラムネを買います。ラムネの瓶に入っている深い青色のガラス玉を集めることにも熱中していました。 僕が炭酸を好きになったのはこのお陰です。 その日も僕は川で泳いでいました。村ではお祭りが近いらしく、みんなその準備をしていたために、 この川はその時だけ僕のものになりました。 いつものように水に潜って、ゆらゆらと流れにそよぐ細い水草を眺めたり、 丸く削られた川底の石ころを見つめたりしました。すると、その石ころの隙間できらりと差し込んだ 太陽を跳ね返す何かを見つけたのです。 僕は1度水から頭を出すと、思い切り息を吸い込みまた水の中へ戻りました。 そしてさっき見つけた石ころの隙間のきらきらに手を伸ばして、ぐっと掴みました。 痛い、と思った時にはもう遅く、澄んだ水は赤く濁りました。 握り締めた手を開くと、ぶわりと更に水中に赤が広がりました。 でもその手の中にきらりと白く光った物を見つけて僕は水の上に出ました。 どくどくと血は相変わらず流れましたが、光の正体はよく見ることができました。それは、釣り針でした。 銀色に光り、ハテナマークのように曲がった釣り針が僕の手の平に刺さっていたのです。 僕は針を手に刺したことなどなかったので、どうしたらいいのかわからずただ手の平を見詰めて呆然としていました。 「人が釣れた!」 上から声が降ってきたのでそちらを見ると、突き出た大きな岩の上に四つん這いになって、 女の子がこちらを見ていました。 そして僕の真っ赤な手の平に気づくと目をぎょっとさせたあと、慌てて岩から離れて見えなくなりました。 僕は手の平の針を抜こうと掴みましたが、力を篭めただけでも恐ろしく痛く、自分で抜くのはできないようでした。 その時ばしゃばしゃと横から音がして、そちらを向くとさっきの女の子が服を着たまま 川に入って流れに抵抗しながらこちらに向かっていたのでした。 「あんた、大丈夫?」 僕のところまでやってきた彼女は額に汗を滲ませながら血だらけの僕の手を掴み、額にシワを寄せました。 「この針はね無理矢理抜こうとするともっと食い込んでもっと痛いの。あたしの家に来なさい。 お父さんが上手にとってくれるから。」 そのまま女の子は僕の腕を掴み、手にハンカチを当てるとずんずんと川から上がり、森を抜けて畦道を通りました。 その間女の子はしゃべり続けていて、どうやら彼女はあの岩から釣りをしていたそうでした。 針はお父さんから借りて、糸はたこ糸、竿は木の枝で、 手づくりだったために針が糸から外れてしまっていたのを僕が掴んだようでした。 「ほうら、取れたよ」 彼女のお父さんは彼女が言ったとおりとても上手に僕の手の平から針を取りました。 先が矢印のようになっていて、そこはさすがに痛かったけれど、僕が自分で抜くよりはずっとずっとましで ずっとずっと血が出なかったことは確かだと思います。 お父さんは慣れた手つきで僕の手に包帯をくるくると巻くと、頭に大きな手を置いて、しばらくの畑仕事の禁止と 水遊びの禁止を言い渡しました。 僕はとても悲しくなりましたが仕方のないことでした。 そのすべてを隣で見ていた女の子の方が、僕よりもずっと悲しそうな顔をしていました。 女の子が僕を家まで送ってくれることになり、僕たちはあぜ道をとぼとぼと歩きました。 彼女の家と僕の家はなかなか離れていましたが、帰り道にあの小さな商店の前を通ることに変わりはありませんでした。 いつもより早い時間だったので商店はもちろん開いていて、彼女は馴染んだ様子で何の予告もなく店に入っていきました。 僕も後を追って店に入ると、もう女の子はアイスを2つ買っておばさんにお代を払ってしまったところでした。 僕は代わりにラムネを2つ買って、おばさんにお金を払いました。 女の子とラムネとアイスを交換して、アイスを食べながらとぼとぼと歩きました。 「ねえあんた、この村の子じゃないね。」 「うん。僕の本当の家は、大きな山をいつくも越えて、途中でご飯を食べたりしなきゃいけないんだ」 「ふうん。あたしもね、今度遠いところに行くんだよ。山をたくさん越えて、海だって越えるんだ」 女の子はアイスをしゃくしゃくと噛みながら言いました。その顔は嬉しそうで、僕は何だか少し変な感じがしました。 「ひとりで行くの?」 「そうだよ。お父さんもお母さんもここに残るんだ」 「寂しくないの?」 「平気だよ。だってそこに行くと幸せが待ってるんだって。 甘いお菓子もふかふかのベッドもきれいなお花もあるんだよ!」 「この村の子達はみんな、いつかそこに行くんだ」 心から楽しそうに話す彼女を、いつしか僕はなんだか遠くに感じていたのです。 「あんたも連れてってあげる」 彼女は、お迎えが来たら僕を呼びに来る、とにこにこしながら言って僕を家に届けると帰って行きました。 僕は彼女の言う「遠く」はなんだか不思議な場所のような気がして行かないと決めていましたが、 あんまりにも嬉しそうに話すあの子を見ていると、「行かない」と伝えることができなかったのでした。 それから畑仕事も水遊びもできなくなった僕は、縁側でのんびりしたり おばあちゃんに切ってもらったスイカを食べたり、古い本を読んだりして過ごしました。 サッカーボールがなかったので、その分ランニングやストレッチをたくさんしました。 ある晩村のお祭りに出かけましたが、あの女の子を見つけることはできませんでした。 もう遠くに行ってしまったのかもしれません。でも、僕を呼びに来ると言ったあの子を、 僕はなんとなく信じているのです。 その晩は月もぼんやりと雲に滲んで、風もなく生温い夜でした。 縁側で夕涼みをしていてそのまま晩御飯まで眠ってしまった僕は、 おじいちゃんやおばあちゃんが眠りについて辺りが静寂に包まれてもなかなか眠気が来ず、 部屋で一人手の平の傷を眺めていました。 だいぶ治ってきたそれは、恐らくそろそろまた川遊びや土いじりをしても平気だろうといった具合でした。 手を結んだり開いたりしていると、窓を叩く音がしました。 驚きながら窓に近寄ると、外にあの女の子が立っているのが見えました。 迎えが来たのだ、とすぐにわかりました。 僕は急いで着替えると、起こさないように抜き足で家の外に出ました。机の上の缶を忘れずに持って。 「お迎えが来たわ」 外に出ると、彼女はすぐに言いました。何となく急いでいるように見えましたが、 僕はきちんと言わなくてはならないと思い彼女の目を見詰めました。 「僕は行かない」 「…どうして?」 帰って来れない気がするから、とは言えませんでした。なので僕は家から持ってきた缶を彼女に差し出しました。 「代わりにこれを持って行って」 「…」 きれい、と缶を開けた彼女は呟きました。それは僕がここに来て集めた、ラムネのガラス玉でした。 「あたしもあんたにこれあげるわ」 女の子が僕の手の平に落としたのは、あの時刺さった釣り針でした。 ただ矢印のように尖った尖端はくるりと丸い球のようになっていました。 「お父さんがやってくれたのよ、もう刺さらないようにって」 自慢気に笑うと、彼女はまた思い出したように慌てて踵を返して行きました。 「ねえ、あたし祈ってるわよ。一馬が幸せになれるように!」 そう言って、月が雲に隠れるように彼女は見えなくなりました。 僕の手には塞がった傷と、刃を失った針がきらりと光ってありました。 次の朝僕は女の子の家に行きました。彼女のお父さんに、彼女がどこへ行ったのか教えてもらおうと思ったのです。 けれど彼女の家のあった場所には、今にも崩れ落ちそうな、 何十年も誰も手をつけていないであろう腐りかけた古い民家がぽつりとあるだけでした。 「あ」 パサリとパンツのポケットに入れていた財布が落ちた。 「ほれ」 「サンキュー」 滑り出てしまった中身を整えていると、結人が何かを見つけて摘み上げる。 出会った頃からずっと持ち続けている不思議な形をしたそれに、顔をしかめた。 「お前まだ持ってんのかよ、この変なお守り」 きらりと光る、獲物を捕れなくなった銀の釣り針。 「まあな」 結人から取り返して、俺はそれを財布の使っていないポケットに丁寧に押し込んだ。 あれから15年ほど経ったけれど、俺は今でも、あの子が「遠く」で幸せに暮らしていると信じている。 090923 ホラーではないつもり。 |