「大事やもんなん、とっくの昔になくしとう。」 「それを取り返しにいくんや」 走り出すのが遅かった。今更走ったところで耳にこびりついた声も、意味も、すべてから わたしは逃げられなくなっていた。 目は開いているのに何度もぶつかりそうになった。 見えているけれど、見ていなかった。 動いている足と、心臓以外はすべて、支配されていた。 淡い期待、胸騒ぎ、不思議な切望、そんなもの、すべてが幻想だ。 なんて、自意識も甚だしい。 当の昔に諦めたはずなのに、それは彼だって同じはずなのに。 それでも全身に響き渡る心臓の上下は走っていることに対して以上に、だ。 わたしは、まだ諦めていなかったのか、それほどまでに焦がれていたのか。 叶うはずのない夢を一生見つづけることを選んだと、思い込んでいたのに。 こんなわたしを、神様、どうか笑って。 アシオナゲダス I cannot walk any more! 誰もいない教室も、はためくカーテンも、日付を変え忘れた黒板も、 きちんと並んでいない机も、嫌いだ。 だから、日直は嫌いだ。 最後までなんとか埋めた日誌(最後につれて字が大きくなっている)を持って、職員室へ行った。 これを担任に渡せば帰れる。わたしは無意識に大またで歩いて、機嫌よく挨拶して職員室の戸を引く。 「大事やもんなん、とっくの昔になくしとう。」 「それを取り返しにいくんや」 聞き間違いではなかった。職員室には(後姿であったけれど)間違いなく彼がいたし、 わたしが日誌を渡す相手である担任に向かってそう言った。 だから逃げてきたんだ。ばかじゃないの・・・・・わたしは。 彼がわたしから離れたのをいいことに逃げ出したのはわたしだ。 それからわたしはずっと逃げている。追って来もしないのに、ずっと、だ。 「もう、いやだ・・・・」 教室にはたったひとつ、荷物が残っている机があって、それはもちろん日直であるわたしのもの。 机の上の鞄を少し、組んだ腕でずらして、わたしは床に膝をついて突っ伏した。 たったあれだけの発言で走り出したりして、あまりにばかげている。過剰だ。 たったあれだけの発言で、どうして。 わたしに関係あるはずもないのに、今更どこかで期待しているとでも? なんて、厚かましくて恥ずかしいんだろう。 もう、昔とは違うと、わかっているはずなのに。 「」 「・・・・」 「お前、さっき職員室におったやろ。なんで、」 「ご、ごめん。なさい・・・」 戸口に立った功刀一は話しながら近づいてきた。 話を切ると、彼は怒ったような目でわたしを見た。 この目が、この目が、わたしを追い詰めた。 いつだって、そうだ。 わたしはずっとずっとこの目から逃げていたのに。 彼の目はいつだってわたしをいとも簡単に貫いた。 それは一瞬にして恋焦がれるような、そんな甘い感覚ではなかった。 それは鋭い刃がわたしの急所を一寸の狂いもなく貫いてわたしの体ごと天高く掲げられるような、 激しい痛みを持っていた。 「ちょお、来なんや」 「え、」 「怯えんでも、何もせん」 「ち、違・・・・・」 俯いたわたしの腕を掴んで机からわたしを離した。 支えをなくしてふらついたけれど、自由な方の手を床についてなんとか保つ。 彼の自由な方の手はわたしの鞄を軽々と持ち上げて、わたしをぐ、と引っ張った。 放られた日誌を教卓の上に置くと、彼はわたしを見て、また怒ったような顔をした。 もう逃げられないんだ、とわかった。 走って走って、もうわたしの足は歩けもしなかった。 俺のせいやな、と彼は言った。 ひとり言だと思った。わたしは何も、返さなかった。 すると彼はもう一度、俺のせいやっとうな、と言った。 わたしはまだ黙っていた。 「カズ、ちゃん」 もう走れない、とわたしは泣いた。 本当は、逃げるのにも疲れていた。 でも立ち止まって後ろを見て、追いかけてきてくれていないのを知るのが恐かった。 本当は、足を投げ出して、昔話のうさぎのように眠ってしまいたかった。 追いかけてきてくれるのを待っていた。 一本道を逆走しだしたわたしを、溜息をついて、振り返って、追いかけてほしかった。 迎えに来て、わたしの手を引っ張って、無理やりにでも立たせて、一緒に歩いてほしかった。 そんなのは我侭だ。 叶うはずもないことで、カズちゃんは、わたしのだいすきな幼馴染は、わたしと絶交すると言ったのだ。 確かに、あの時。 だからわたしは逆走しだしたんだ。 そこで地割れが起きて、一本道は割れて、そこでわたしとカズちゃんは2度と一緒に歩けなくなったんだとわかっていた。 「もう、功刀くんて呼びとう、ない。」 「俺やて、に功刀くん、なんて呼ばれたくなか。」 カズちゃんは止まって、くるりとわたしの方を向いた。 俺がバカやった、後悔しても遅かけん、男に二言はないっちゃろ。 カズちゃんは怒った顔で、困った目をしていた。 いつもみたいに強い話し方じゃなくて、一生懸命聞こうとしないと聞き取れないようにしたいのか、 もごもご、と少し話した。 「カズちゃん。仲直りは、できませんか?」 聞こうと思わなくても聞こえるように言った。 カズちゃんは、ひどくビックリしたように目を開いてわたしを見たけれど、 不思議とわたしはもう痛くなかった。 優しいカズちゃんの目は、懐かしいように、花が香るように甘く、わたしには見えた。 「・・・・・できん」 ぐ。カズちゃんがわたしの腕を離して、手を掴んだ。 ひどく熱くて、あの頃よりもずっとずっと、大きく、厚くなっていた。 050831 君のことが、好きだから。 |