不思議な、日だった。
時刻はPM6:10、もうすぐ太陽が西に沈み切るくらいで、赤と、群青が混ざり合って、 グラデーションを作る、赤から青のグラデーションなんて、夕陽にしか作れないだろう、 だから、きれいなんだ、と西の空を見て思った。

――――きれいなんだ、この空一面を覆い尽くす、雨雲さえなければ。


この雨雲さえなければ、というか、雲はあってもいい、雨さえ降っていなければ、 わたしは早々と家に帰れるはずだった。もう家に着いて、お菓子を食べているはずの時間だ。

この梅雨時に傘を忘れるほど間抜けではなかった。
ただ、昨日の帰りは偶然晴れていて、傘を持って帰るのを忘れたから、 昇降口の傘立てにある、そう思っていたんだ。










Romantic mode.









「・・・・うそぉ、」


ひとり呟いた声は、広い昇降口にも関わらず雨(湿気)によって床へ落とされた。
迎えが来ていた友達と別れて、10分、思えば10分も傘を捜したんだからあるはずもない。 やはり家に置いてきたのかと考えて、記憶を辿っても、昨夕玄関先で傘を忘れたのに気が付いたのは確かだった。

―――どうしよう、

と、自分がここに独りきりだという事実に突然気付いて、訳もなく慌てる。 ロッカーの置き傘は、おととい友達に貸してしまったし、まさかわたしの傘が盗まれるなんて、 思ってもみなかった。ビニール傘じゃないのになあ、しかもちょっと、あれお気に入りだったのに・・・・。 まったく世の中も物騒になったもんだ、と年甲斐もないことを思う。



そして雨脚が弱くなった隙に急いで帰ろう、と決意してから10分。

つまりわたしはもうかれこれ20分もこの昇降口にいた(たぶん一生の内でこれが最長になる、と思う)。 雨脚は一向に弱まらないし、外はあれから加速がついたようにどんどん暗くなっていく。 幸いわたしの家までは走れば5分強の距離だから、わたしは踏ん切りをつければいつだって帰れた。


でも、わたしはなんとなくそこに留まっていたのは、
雨が上がるかもしれない、という微かな希望のせいでもあったし、
雨が降っている学校、といういつもと違った雰囲気のせいでもあったし、
梅雨、という一年の内のほんの限られた季節のせいでもあった。














  * * * *  












「うーん・・・・、」

唸ることしばし、まだ人は誰も通らない。
そういえばまだ生徒だって1人や2人残っててもいいはずだ、先生だって、お母さんしてる人もいるんだから、 帰るなら、もし幸運なことに担任のありちゃん(有本先生といって中トトロに似てる)が通ったら、何とかお願いして送ってもらいたいなあ、 なんて、期待を抱いてなくもないのになあ。

いいかげんお腹も空いてきたし、テレビもみたいし、でも雨脚は弱くならないし、 もうだいぶ暗くなっちゃったし。

―――もっと早く帰ればよかった。

いくら近くても、ひとりで暗い中帰るのは少し、こわい。
それに雨だし、なんか怖いドラマとかって、そういうの、だいたい雨じゃない?
こんなこと言うとまた友達にテレビの見すぎだ、て言われるけど、でもこわいのはこわいんだ。






・・・・・・よし、帰ろう。走ろう!


決意して、すっく、と立ち上がったときだった。

ちょうど、その時、だった。











?」



初めての人の出現に思わず、ビク、と体が反応してしまって、自分でも驚く。
わたしの名前を呼んだ声には聞き覚えがあり、でも残念なことにありちゃんではなかった。

それは、男の子の、すこし掠れた低い声、だった。




「真田くん」




一連の出来事ですっかり暗がりに慣れていたわたしの目は少し離れたところに立つ人影を、 クラスメイトの、真田一馬くん、だと、しっかり捕らえることができた。
名前を呼ぶと、真田君は自分の呼んだ名前が間違っていなかったことに安心したのか、こっちへ向かって歩いてきた。



「何やってんだよ、こんなとこで」


遠近法というのはすごい。
偶然にも真田君の下駄箱はわたしが立っているところの真後ろで、真田君は靴を代えながら尋ねた。 わたしは自然と真田くんを見上げる。イメージよりもずっと、背が高い。

というのも、わたしが真田くんとまともに会話したのはこれが初めてだ。 わたしの名前を知っていることにも少し驚いたし、かつてないほどの至近距離に、正体不明の気まずさを感じたし、 なにより、わたしは真田くんがあまり得意ではなかった(だって無口だし、人とつるまないし、つり目だし、、)。




「帰ろうと思ったんだけど、傘がないの。盗られちゃったみたいで。・・・だから弱くなるの待ってたんだ。」
でも、いくら待っても弱くならないし・・。


いかにも自然な受け答えに心の中で拍手した。わたしだって、やればできるじゃないか、と。 そんな必死の答えなのに(もちろん真田くんはそんなこと知る由もないけど)真田君は、ふーん、と言って黙った。




・・・・沈黙です、か。
思えば私たちは2人とも、寡黙な人間だった。沈黙が訪れるに決まってる。
でも、わたしが何も話さなかったのは、真田君が、ふーん、と言った後すぐに帰るだろうと思ったからで、 なのに真田くんは、ふーん、と言った後もそのままわたしの斜め後ろに立ち続けている。



・・・・真田、くんは、
「真田くんは、なんでこんなに遅いの?」
「・・・・別に。休んでたときの課題のこととか、授業のこととか、有本先生に呼ばれてただけ。」
「そう、なんだ。」


サッカーだったよね、大変だね。

どうやらわたしの言葉は、雨に落とされずに真田君に届いたらしかった。 返事が返ってくるのが嬉しくて、言葉の意味と口調がちぐはぐになってしまった。


「大変じゃねえよ、サッカー好きだし」




わたしの無意味に明るい口調を気にもとめずに、そういうと真田君は、やっと動き出した。 トン、と靴を床に放る音がして、真田君は無言で靴を履く。
その様子をとなりでぼおっと眺めながら、真田君は何かしら自分できっかけを決めて行動してるんだ、と思って、 なんだかそれは今まで思ってた、こわい真田君、とは違って、かわいい真田くん、だと思って、口角が少し、自然と上がった。






これ、使えよ。


真田君は自分のらしき傘をぐ、とわたしに差し出して言うので、真田くんはどうするの?と聞くと


「走って帰るから、いいよ」


という。
ただの人(という言い方もおかしいけど、この場合はわたしのような普通の人だ)のわたしは雨に濡れて風邪を引いたところで なんの問題もないけれど、真田くんはサッカーと学校と、いわば2つの生活があって、そんな、風邪なんて引いたら(いろんな人が)困る。 そんなのダメに決まってるじゃないか、と心の声を荒げたけれど、真田くんに言えるはずもなくて、


「い、いいよ!わたしこそ走って帰ろうと思ってたところだったんだし」


と、言うのが精一杯だった。
でも真田君は、いいから使え、と目で訴えて突き出した傘を引っ込めない。
でもわたしだって、真田くんに風邪を引かせるわけにはいかないのだ。




「・・・・・じゃ、じゃあ、借りる」

そこまで言うと真田くんは満足そうに、にっ、と笑って、傘を持つ手を少し緩めた。
わたしは、借りるから・・・・、と傘を受け取りながら言葉を続ける。


借りるから、一緒に帰ろう、と。










*  *  *  *












じ、と睨みだと思われないように気をつけながら真田くんを見た。
ここで嫌がられたら、結構傷つく、かも。 わたし、嫌われてるのかな、みたいな、自分は元は苦手だったくせに、だけど。





「・・・・え、でも、」


ようやく真田くんは言った。でも、でも、で止まっちゃった。
でも、何よ、と見つめると、真田くんは口を一文字にして目を合わさない。




「ふっ、」

思わず笑ってしまった。
真田くんの頬が夕陽が沈んだ瞬間の空の色と同じだった、から。

ああ、そうだなあ、
―――遠くと近くじゃ違うんだ。

遠くからみた真田くんは、いつも不機嫌で、無口で、すこしこわい感じ。
近くでみた真田くんは、やっぱりつり目だけど、かわいくて、優しくて、不器用な感じ。




「・・なんだよ」

少し怒ったように真田くんが言うので、わたしは慌てて、そんなに真剣に悩まなくてもいいよ、と言った。
だって、あの顔は悩んでる顔。
きっと女の子と相合傘なんて、恥ずかしいんだろうなあ、でも断ったらわたしが傷つくだろうと思って、 それで悩んでくれてるんだなあ、って思ったから。ちょっとわたしの希望も入ってる予想、だけど。








「わかったよ。でも、」



真田くんは。はあ、と溜息をついて(渋々、じゃないといい)承諾してくれた。
でも、て。またでもかあ、となんだか面白くなって真田くんを見上げる。

でも、なに?

少しわくわくする、けどからかいに聞こえないように、気をつけて。








「送ってく、からな!」




ちょっとだけ乱暴に言い切って、わたしが持っていた傘を取った。
一瞬手と手がぶつかって、
夏が始まる甘い雨の匂いが、した。











050825