例えば、ほかほかした朝陽がわたしの左側から差し込んで、コーヒーのいい香りが鼻をかすめたり、 控えめなノックの後に、ゆっくりドアが開いて、大きくて少し骨ばった手がわたしの前髪を撫でて、 やさしくわたしの名前を呼んでくれたとしたら。 それ以上の幸せなんて、この世にもあの世にもきっとない。 ラブソングの終止符は鳴らない the sound doesn't work which stops our love song. 目覚ましの鳴る5分前に目が覚めた。 変な頭痛もないし、すっきり起きれたことに胸が小鳥を抱いているように温かくなる。 目覚める一瞬手前まで幸せな夢を見ていたのは確かなことなのに、どんなに目をつむって 思い出そうとしても、砂場で透明なビーズを捜すようでさっぱりひと欠片も蘇っては来なかった。 真っ白い天井と壁に、ベッドとシーツ。石膏の中に沈められているような錯覚。 目が覚めたところでわたしはベッドから出られない。 あと3時間ほどすれば平馬が来てくれるから、この前借りた本を返してしまおうと思って ベッドの傍のテーブルから本を取った。 もう少し腕を伸ばして、カーテンを開ける。白金色の果実が熟していくように 朝日が差し込んで、本のハードカバーが水面のように白く光を反射した。 # 「」 「おはよう、平馬」 少し微笑んで歩み寄った。 「何か羽織れよ、風邪引くぞ」 「平気、今日は暖かいから」 これありがとう、とは昨日俺が貸した本を手渡した。 じいちゃんの本棚に入っているのを一番上の段の右端から読みたいと言って、 ここに来るようになってからずっと持ってきている。 は読むのが速い。普通の厚さの本なら1日で読み終わってしまう。 確かにここは医者と看護婦以外は誰も来ないし、どうしてかテレビもないから読書くらいしかすることはないけど。 俺なら読み始めたら10分で寝れる、といつか話したら、は笑って「じゃあ、平馬は不眠症の心配はいらないね」と言った。 本を鞄にしまって、ベッドの淵に腰掛けるとはベッドに置いた手に自分の手を重ねた。 俺は自分の手をそっと引き抜いて、もう1度の手に重ねる。 それを合図にゆっくりとお互いに体を寄せ合ってキスをした。 気づかない内にそれが当たり前になっていた。この瞬間だけ、鼓膜が機能を果たさない。 一瞬にして際限ない静寂が広がる心地が、お互いに好きだったんだと思う。 は生まれつきの心臓の病気で移植しないとなかなか難しい状況にあるらしかった。 詳しいことは知らない。きっとじいちゃんだって知らなかったんだろう。 はじめは、じいちゃんとの約束だったから来なきゃいけないと思っていた。 だけどと話すようになって、目を瞑って歩いてもここにたどり着けるようになった(実際にやったことはないけど)。 散歩しようと、ふらり家を出ても、気がつけば足はへ向かって歩いていたし、言葉はへ向かって 投げかけられていた。 ただ、恋ではなかった。 俺が今までに経験してきたような、恋という甘くて痺れるような感覚とはまるで全てが違った。 でも同情や哀れみでもなかった。 たったひとつ、確かなことは キスの後にに抱きしめられると、どうしようもなく胸が痛む。 痛むというよりは、心の端が、ごうごうと燃えて、灰になって堕ちて行くような感覚。 は抱きしめるのが好きだった。 「溶けてしまえたらいいのに」 溶けて平馬の体になりたい。 雨を運んでくる風のようにはひとりごとを囁いた。 愛しているものを抱きしめると、海に沈んでいくような気がするんだとは言った。 「でもね、平馬を抱きしめてるときは、沈む感じがしないの」 「なんで?」 「…なんでかな、きっともう海の底にいるから」 初めての細い背中に手を回してみた。 ああ、確かに、ここは海の底だ。 ただなんでだか堪らなく悲しくなる。この感情が、の言う愛なんだろうか。 だとしたら、俺は ## わたしの記憶からあなたを消し去るには少しだけ、思い出も思い入れも多すぎたらしかった。 そろそろ千切れそうな腐り掛けのロープで縛られた約束から平馬を放してあげなくちゃ。 鳥の居場所は空であってここではない、翼があるのだから羽ばたかせて舞い上がるのは植物が呼吸をするよりも当然だ。 ただわたしの居場所がここであることは、川を下ってゆく石が丸くなっていくのと同じように必然すぎる。 相容れないそれが今まで自然に傍に佇んで身を寄せ合っていたことが思えばまるで夢のようなことだ。 目を醒ますにはこれが潮時だろう、この世界を研ぎ澄ます泉はもう泣くのを止めてしまった。 それはひどく単純なことだった。わたしの髪を撫で、手を取って風の便りを読んで聞かせてくれる人がいなくなるだけ。 でもそれを考えるだけで泥の塊のようになってしまった心がずぶずぶと融けていくのを感じた。 いっそ水になって海まで運んでくれたらいいのに。あの果てしないところへたどり着ける頃には孤独も残酷も忘れるだろうから。 彼の祖母が再婚する前に生まれた娘の子を、彼の祖父は妻が亡くなってからひどく愛した。 亡くなった妻の若い頃に瓜二つなのだという。彼の祖父は出かけには必ずわたしのところへ来て、 同じくらい愛する男孫の話を冒険から帰ってきた勇者のように大層誇らしげに語った。 彼の両親は共働きでお互いに出張の多い仕事であって、渡り鳥のようにあちこち飛び回っていた。 それでも愛はあった。彼らの息子は父方の祖父の家に預けられ、平馬は祖父に育てられた。 その祖父が入滅の頃になくなって、3ヵ月後に平馬宛ての祖父からの手紙が平馬の部屋で見つかったのだという。 出かけには必ずわたしの元へ来ること。それが祖父の願いであった。 愛する妻の孫の孤独を誰よりも痛んだ彼らしい願いであった。 そしてその孫も祖父譲りのお人好しで、親愛なる祖父の遺言をしっかりと守っていたのだ。 わたしは平馬を愛していたけれどそれは単に、この白い部屋に愛という名を付けて平馬を閉じ込めておくことと 何ら変わりがない気がした。 わたしが何も言わなければ寄せては返す波のように、平馬は未来永劫こうしてわたしのところへやって来て キスをくれるだろう、わたしに抱きしめさせてくれるだろう。 でもわたしはもう、金剛石を生む鳥を隠しておくことはできそうにないから、明日海を渡ることにした。 ただ平馬を放すのとは違うし、逃げるわけでもない。 放って置けば間違いなく平馬よりも先に土へ還ることは明らかなら、少しくらい死と追いかけっこをしてみる のも案外悪くないと思うから。 この部屋が消えてもこの世界に平馬がいるのなら、わたしは平馬を愛しているのだと今度こそ歌えると思った。 わたしの心臓が誰かのものと入れ替わっても、それでもここへ帰ってきて平馬を抱きしめたいと思えるのなら そのときにはきっと、海の底でも歌を歌えるだろう。 それは間違いなく 愛の歌だ。 ### 暖色の上を白金が滑るような朝陽が差し込んで、コーヒーのいい香りが鼻をかすめる。 控えめにノックをした後、ゆっくりドアを開けた。 「」 名前を呼んで前髪を撫でると、小さく身じろぎをする。 覆い被さるようにしてキスをすると、帳のような長い睫を少し震わせてゆっくりと瞼を折り畳んだ。 「起きてただろ」 「やっぱりバレてた?」 時間の流れが緩んだような速さでは起き上がって、頬を弾ませた。 俺はあの頃と同じようにベッドの淵に腰掛ける。 「いい夢みちゃった」 「どんな?」 「アメリカに行く前の日の夢」 「ああ、…俺の心臓に悪い夢、な」 は楽しそうに笑って、カーテンが揺れるのに合わせて俺の手に自分のそれを重ねた。 「ごめんね、だってあの時は わからなかったから」 わたしの未来のことも、平馬の先のことも。 「だからって何も言わずに行くなよ」 「ごめんね、…でも、平馬は 待っててくれたね」 俺は自分の手をそっと引き抜いて、の手の上に静かに置く。 自然と身体が吸い寄せられるのと同時にぎゅっと手を握りしめると、周りの景色が遠ざかっていくのを感じた。 の鼻が触れて、閉じそうな瞼を少し持ち上げる。 「じゃなきゃ、海の底に行けない」 返事はいらなかったから、そのまま塞いだ。 きつく抱きしめながら抱きしめられる。 やっぱり、胸が痛む。 これ以上の幸せなんて、この世にもあの世にもきっと、ない。 060809 96hours.出品作品 |