溜息をついた訳でもないのに、ふっと自分の息の音が聞こえた。
ゆっくり空気を吸っても途中でつかえてしまうように胸が震える。

いけない と思った。
その目はわたしを石にする。指先すら、動かせない。
















初めて彼を見た時から、わたしの中にはある一種の畏怖のようなものがあった。
目が合ったことはなかった。でもそれはわたしと彼の間には共通点が何もなく 会話すらしたことがなかったからであって、わたしが常々彼と目を合わさないように過ごしてきたからだ。


郭くんはいつも遠くを見ていた。
遠い目をしていたんじゃない。ただ、その目はいつだって 近くに転がっている机や椅子や黒板や、 クラスメイトや校庭、そんなものには目もくれなかった。
どこを見ているのかは彼にしかわからないだろうけれど、それは到底わたしには理解できるものじゃなかった。

わたしには影すらも見えるものではなかった。










中学校3年間、運がいいのか悪いのか、わたしは郭くんと同じクラスになり続けた。
それでも隣の席にも前にも後ろにもならなかったし、同じ係にも、委員会にも属さなかった。
だから今まで一言も交わさずに、目も合わさずにやってこれたのに。

最後の最後で日直が重なってしまった。
過去にそれがなかったわけじゃないけれど、郭くんはサッカーをやっていてそのために学校を休む ことがしばしばあって、過去1度だけあったそれは、見事に休みと重なってくれたのだ。

椅子を引いて座ると、小さくカタンと音がした。
誰もいない教室はやけに音が響いて緊張してしまう。
郭くんは来ていない。でも鞄は机の上にきちんと置かれていて、たぶん職員室あたりに呼ばれているんだろう と思った。

わたしは静かに日誌を開いて黙々と書き込んでいく。
日直、天気、日付、授業、出欠……最後の記事の欄がいつも必ず時間を食うのだ。
書くことが思いつかないし、思いついたとしても2行分ほど。
それで提出するのは簡単だけれど、そんなことをしたらいつまでも日直から抜け出せない。
でもやることがあるだけましだと思った。何もすることがないけれど勝手に帰る勇気もなくて 郭くんが戻ってくるのを待つなんて、考えただけでおかしくなってしまいそうだ。




「あれ…ごめん。遅れて」

戸口に郭くんが立ったようだった。
わたしは見ない。目が、合ってしまうから


「ううん。郭くん他のやってくれたでしょ?もう終わるから、大丈夫だよ」

日誌に文字を書きながら答えた。
字が少し荒れて、大きくなってしまっている。手が勝手に、さらさらと適当な出来事を書き連ねていく。
 キュ、と床が鳴った。ワックスをかけたばかりの床は西日をよく跳ね返す。
郭くんがゆっくりとこちらに歩いてきていた。

デジャヴではない。
でも同じ音がして、郭くんがわたしと向かい合わせに座る。




どうして

こわい







彼の目は、太陽を身体中に浴びて大きく開いた花のようでは決してなかった。
でも光を切り裂くような鋭利な目は、深い黒を宿していた。
まぶたの隙間から押し寄せるように飛び込む光をみんな吸い込んで、一筋も逃さず その奥に閉じ込めてしまったような、黒。

 明けない夜のようだ と 思った。





さんて俺のこと苦手でしょ」


名前を呼ばれたことに驚いたのか、内容に途惑ったのかはわからないけれど、 一瞬にしてわたしの心臓は高く跳ね上がった。
反射的に顔を上げる。

彼の瞳は、はっきりとわたしの姿を映していた。
その姿に背中が瞬間ぞくり、と粟立ったのを感じた。
瞳の中のわたしが近づいているのがわかった。
けれどわたしの目も頭も、もう距離という感覚をとうの昔に置いて来てしまっていた。


溜息をついた訳でもないのに、ふっと自分の息の音が聞こえた。
ゆっくり空気を吸っても途中でつかえてしまうように胸が震える。

いけない と思った。
その目はわたしを石にする。指先すら、動かせない。

いよいよ大きくなった瞳の中のわたしは、真っ直ぐわたしを見ていた。
郭くんは少し微笑ったようで、まぶたが微かに動く。


「目もつぶらないの?」



言うが早いか彼のくちびるはいとも容易くわたしのそれと重なった。
ただそれは、無性にあたたかくて、決して石なんかじゃなかった……彼も、わたしも。
得体の知れない熱が身体中を駆け巡っているのを感じながらわたしは言うことを聞かない神経を なんとか動かし、やっとの思いでまぶたを下ろした。




「俺はさんにすごく興味があるよ。」
念のため言っておくけど、今のは興味本位でしたことじゃないから。


郭くんは見たことのない顔で笑って、柔らかい口調だった。
目を丸くしたわたしは、状況を飲み込むのが精一杯で、言い回しや言葉を選んでいる 余裕なんかはまったく持ち合わせていなかった。


「…キスした?」
「したね」
「どうして」
さんを近くで見たかったから」
「うん」
わたしも郭くんを近くでみたい、と 思っていたのかもしれない。


小さく呟いた言葉は甲斐もなくすんなりと彼に届いた。
郭くんはもう1度ふわりと笑う。
すべてを閉じ込めてしまうはずだったその瞳は、恐ろしいほど鮮やかにわたしを映し出している。
ぞくりとまた背中が震えた。
さっきこれは恐怖だと思ったそれが、本当は何だったのか、気づいてしまった。

郭くんに対する恐怖でも、その目に対する怯えでもない。
恍惚だ。この夢のような現実にわたしは浮き沈みを繰り返してうっとりと溺れてゆくんだとわかった。


















その瞳の中のわたしと目が合い、その奥の郭くんとも目が合った。
ふたりは笑っていた。わたしも笑っていたのだ。











060125  happy birthday!